気が向く時しか気が向かない

3次元・2次元の推しの話から日常の話まで

人の感想を読むことはインプットに思えてアウトプットの放棄

NHK連続テレビ小説、通称・朝ドラの新作が今月から始まった。
朝ドラを観終えた頃に家を出ると出勤のタイミングとしてちょうど良い為、ここ何作か朝ドラの視聴を続けている。
(ただし仕事のない土曜日はそんな早い時間に起きられるわけがないので、週の最後の一話だけどうしても毎週観られない)

数日前、ネットの記事でこんな見出しを見かけた。
「新朝ドラ 早くも大不評」
そうなのか、と思いながら私は記事を開こうとした。が、思いとどまった。

私は今の朝ドラについて、特別面白いとも特別つまらないとも、まだ評価をくだしていない。
そんな状態でこの記事を読んだら、その記事の朝ドラ感想に自分が引っ張られるのではないかと思った。

ネットが発達した現在、自分の感想を発信することも、逆に人の感想を読むことも、昔に比べて格段に容易になった。
人の意見に触れて新たな気付きを得ることは良いことだし、そこから情報や知識を得ることがあれば、人の感想を読むことはインプットという行為だと言えると思う。
しかしそれは本当に純粋なインプットたりえるだろうか。

私はスマホの漫画アプリで連載している漫画を読むことがある。
紙媒体の雑誌の連載漫画を読むのと大きく異なる点は、そこにコメント欄があり、漫画本編を読んだ直後に同じ話を読んだ人の感想を読めることだ。
また、私の利用しているアプリでは、人の書き込んだコメントに「いいね」等の評価をつけることも出来る。

私もコメント欄を覗く時があり、自分が抱いたのと同じような感想が書き込まれていると「いいね」を押すことがある。
自分は考えもしなかった感想を目にして、本編を読んでいる時には気づかなかったがなるほど同意出来ると思った時に「いいね」を押すこともある。

そんな自分の行為を振り返った時に「自分と同じ感想」と「自分は思いもしなかったが同意出来る感想」との境目が、わからなくなってはいないか?と、思った。

自分の感想がまとまらないうちに他の人の書き込んだ感想を見て、それに同意して、それが自分の感想のように思い込んではいないだろうか?
人のコメントを読んでインプットという行為をしている気になって、自分の感想を発信するというアウトプットという行為を、気づかないうちに放棄してはいないだろうか?

そんな考えに至ったので、朝ドラについての記事を読むことはひとまずやめておいたし、昨日観た
映画『若おかみは小学生!』の感想も、人の感想を目にしてしまう前にと取り急ぎその日のうちに記事にした。

人の感想に触れることで得ることは多くあるだろうし頑なに拒んだりはせず吸収したいと思うが、インプットの手軽さに甘んじてアウトプットを放棄してしまわないようにしたい。
そんな気付きを得た秋だった。


ところで、このブログで初めて記事を書いてから今日で三日目、これが三つ目の記事となる。
これで明日記事を更新しなかった場合、三日坊主の手本中の手本になってしまうが、元々このブログは書きたいことがある時だけの不定期更新のつもりで、毎日更新するつもりで始めてはいない。
ここ三日更新続いたのは、たまたま書きたいことがあり、たまたまそれを書き上げることが出来てしまっただけなのだ。

また書きたいことが浮かんで書き上げることが出来たなら更新するが、それが明日になるか一週間後になるか十年後になるかはわからない。
万一この記事を最後にこのブログの更新が途絶えたとしても、三日坊主とは呼んでくれるなと主張しておきたい。